ビートルズ


















ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンド。歴史上、全世界で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズは最も成功したグループアーティストと認定している。1962年10月レコードデビュー、1970年4月解散。

1960年代を代表する世界的アイドルとして成功を収める一方、彼らの作り出した音楽は60年代以降のロック・ポップスシーンに多大な影響を与えた。チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーなどのリズム・アンド・ブルースやロックンロールをルーツとしつつ、革新性と普遍性を併せ持った彼らの作品は、現代音楽の金字塔として揺るぎない地位を保っている。

外貨獲得に大きく貢献したとして1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章がメンバーに授与された。解散後、イギリスで新たな人気アイドルが登場する度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。"Fab4"という愛称もある。



◆世界への影響◆

ビートルズの影響力は世界中に波及し、曲のコピーや世界各国でバンド編成のグループが誕生した。またファッション面での貢献として、初期にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」(スチュアート・サトクリフが恋人のアストリット・キルヒヘルのヘアスタイルを真似たことで広まったという説もある)などといった、数々の点が挙げられる。長髪スタイルも彼等の影響のひとつ。ファッション面の他にも20世紀のポップカルチャーとして各国の文化面にも多大な影響を与えた。その背景として、当時から現在まで世界の超大国であるアメリカで前代未聞の人気グループとして認知され、かつ、同国の驚異的なレコード売り上げ枚数やコンサート動員数で大きな成功を収めたことが指摘されている。


●音楽的貢献

ロック・ポピュラー音楽史の流れなど変えた事や、予約レコード枚数の世界最多記録など数え切れない。各国でも色々な記録が残っている。またカバーされる曲が最も多いアーティストとも呼ばれている。彼等の「イエスタデイ」は世界中のアーティストから最もカバーされており、『ギネス・ワールド・レコーズ』には3000曲以上のカバー曲があると認定されている。ちなみに有名アーティストからはエルヴィス・プレスリーフランク・シナトラなどが取り上げている。また他の曲では、「カム・トゥゲザー」がマイケル・ジャクソンによって彼のビデオに取り上げられた(その後、アルバムにも収録)。ソロ活動したジョン・レノンの「イマジン」もマドンナや多数のアーティストにカバーされている。日本では昭和の歌謡界の女王、美空ひばりや若大将の異名をもつ加山雄三などが彼等の曲をカバーしたり、歌っている。また日本のロック歌手矢沢永吉もラジオから流れてくるビートルズを聴いてロックに目覚めたという。またカバー曲だけではなく、現在までのポピュラー音楽がここまで進化してきたのも彼等の曲の影響であるのも事実である。また音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。


●オリジナル曲を自ら作った

ビートルズ以前にチャック・ベリースティーヴィー・ワンダー、バディー・ホリー、リトル・リチャード、キャロル・キングなど自作自演を基本とした歌手や作曲家の例は多数ある。

ジョンとポールは彼らに憧れ、自作自演を目指してオリジナル曲作りに励んだ。 当時ポピュラー音楽では作詞、作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルヴィス・プレスリーでも一部は他人との共同ながら自作の曲もあるが、基本的に持ち歌はエルヴィス以外の人の作詞作曲であった。これに対し、ビートルズは基本的に自らのリリースする曲は自作自演であり、アマチュア時代や初期(1965年頃まで)のライブやアルバム中の曲に限りR&RやR&Bの他のアーティストのカバー曲があったものの、中期(アルバム『ラバー・ソウル』から)以降は全て自分たちのオリジナル曲であり、シングルに関しては、デビュー曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」以降全てオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった(特にデビュー曲に関し、プロの作曲家に頼まず、オリジナル曲を出したアーティストは当時皆無に等しかった)。ビートルズが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズミック・ジャガーキース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。ビートルズ以降、アーティストやミュージシャン、シンガー達が自作自演という事が一般化されていく。


アメリカへ本格的に進出した。

1964年のビートルズアメリカ初上陸はアメリカ人にとっても歴史的な年で、エドサリヴァン・ショーに出た時は、アメリカのテレビ史上最高の72パーセントという驚異的な視聴率などが記録に残っている。また当時のアメリカ合衆国の人口で7300万人が視聴したという。また、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をリリースし、アメリカでのナンバー1ヒット曲が最も多いアーティストとなっている。その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコード・デビューの年でもある1964年には、4月4日付の『ビルボード』誌のシングルチャートの1〜5位を独占)が挙げられる。また、ビルボードでは、最も多くのナンバー1獲得アルバムなどがある。ビートルズは英国人として全米レコード協会のゴールドディスク受賞を果たしているが、当時は外国人が受賞する事は非常に珍しい話であった(史上初は同時期に活動していた坂本九で、ビートルズは2例目)。この「全米レコード協会」によるとビートルズが現在までアメリカで最もレコード売り上げ記録があるアーティストとして記録されている。 アメリカ合衆国第42代大統領・ビル・クリントンは「ビートルズの中で特に好きなのはポール・マッカートニー」と答えている。


●さまざまなジャンルの音楽との融合

一方、中期に差し掛かる辺りから「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」、「シーズ・リーヴィング・ホーム」でのストリングス、「フォー・ノー・ワン」でのホルンなどといったクラシック音楽で用いられてきた楽器を演奏する曲がリリースされた。また、ジョン作の「ノルウェーの森」で初めてジョージがシタールを導入したことにはじまり、「ラヴ・ユー・トゥ」、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、「ジ・インナー・ライト」などの主としてジョージ作の曲で際立っていたインド音楽に使われる楽器の演奏を、サウンドに融合する形で組み込んだ(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、「ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」などといった、ラーガロックへと、レノン=マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」では、ブラス・セクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。「アイ・フィール・ファイン」ではフィードバックも使用した)。

このような幅広い楽曲を作ったビートルズは、デビュー当時は単なるロックンロール・バンドと見られていたが、その音楽的な領域は単なるR&Bにとどまらず、バラードからハードロック、またカントリーソングからゴスペルソング、そしてフォーク・ソングからオペラ風ソング、クラシック音楽からジャズ風のサウンド、バンド音楽からピアノ曲バロック音楽からレゲエ風ソング、ジョージ・ハリスン作曲のインド音楽、さらには「レヴォリューション9」にみられる実験的音楽まで、ありとあらゆるジャンルに広がっており、以降、世界のロック・ポップス音楽はあらゆる領域で、多かれ少なかれビートルズの影響を受けていると言える。このようなある種「音楽のデパート」の様な傾向は、二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)に顕著に見受けられる。 また欧米の音楽評論家達からはその「ホワイトアルバム」を「西洋音楽の歴史である」と評価されている。 同時に後述のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のように高い音楽性を示す作品も作り出しており、バンド音楽、ポップス音楽をある種の芸術にまで高めた功績も非常に大きい。


●映画

ビートルズは映画も5本残している。「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」、「ヘルプ!4人はアイドル」、「マジカル・ミステリー・ツアー」、「イエロー・サブマリン」、「レット・イット・ビー」などがある。


●プロモーション・フイルム(ビデオ)の作成

ライブ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージフィルム(ビデオ)撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。プロモーションのためにいちいちテレビ局に出向いて演奏を披露するのが面倒になってきたためで、「ならば自分たちで演奏シーンの映像を作ってそれをテレビ局に配信すればよい」という考え方に至ったためと言われている。プロモ映像の製作は1965年の段階ですでに始められており、これが現在のプロモーション・ビデオの原型であると見る向きもある。またポールが主権を取り、マジカル・ミステリー・ツアーを製作する際、音楽を映像で表現してみようという発想からも見ることが出来る。『ビートルズ・アンソロジー』においても、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、当時は非常に画期的なことであった。 ちなみに「MTV」は1980年代に入ると欧米を主に人気を博して行く事になる。


●野球場でのコンサート

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、メンバーの疲労も非常に激しいものであった。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりに、コンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。そして、1965年8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて、それまでに前例のない史上初の野球場でのコンサートが行われたのである。この日、球場には実に55600人もの観客が集まった。

1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された。ビートルズ最後のコンサートも野球場であった(1966年8月29日、キャンドルスティック・パーク)。その後、野球場でのコンサートは一般化し、野球場でコンサートができることは、ロック・バンドにとっての一種のステイタスとなった。ビートルズがコンサート会場として野球場を使ったのは、一度に大勢の客を集めて移動の手間を省く、すなわち、少ない労力で最大の効果をあげることを目的としたものであったものの、野球場コンサートのステイタス化の先鞭であったといってよい。


●レコーディング方法の開拓

多重録音が可能になり、後半の曲は音楽実験的な要素が含まれるようになる。有名な例が巻き戻し再生によるレコーディングなどだ。演奏方法においても、ビートルズは積極的に新しい方法を取り入れた。演奏方法についても、「デイ・トリッパー」に使われているようなギターとベースのユニゾンパートをロック・バンドがレコーディングに使用したのは、彼らが初めてである。ギターとベースのユニゾンについては、現在ではごく当たり前に使われるようになった。特にサイケデリック・ロックによって生まれた「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などの高いレコーディング技術は、その後の音楽業界に多大なる影響を及ぼした。

ビートルズがつくり出した演奏方法、サウンドなどは、後のハードロックやヘヴィメタルの発展に大きく影響していると評価されているが、ビートルズのメンバー自身、ロックに限らず、当時の新しい音楽や楽器に敏感に反応していたのは確かである。








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