ブリジット・バルドー

















ショーン・コネリー



本名 Brigitte Anne-Marie Bardot
生年月日  1934年9月28日(76歳)
出生地 パリ
国籍 フランス
職業 女優、歌手
配偶者 ロジェ・ヴァディム (1952-1957)
    Jacques Charrier (1959-1962)
    Gunter Sachs (1966-1969)
    Bernard d'Ormale (1992-)



●来歴

パリ16区の航空会社経営者および母方は保険会社の重役職にあったきわめて富裕な両親のもとに出生、幼い頃からダンスやバレエ、舞踏を習う。

雑誌のカバーガールをしていたときにかねてより実家に出入りがあったロジェ・ヴァディムの進言で女優を志すことになるが決定的な動機は「映画を通し、己の美しさを世界に知らしめることが出来得るため」であった。ヴァディムとは18歳のときに結婚したが、後年離婚。

1956年、ヴァディムの監督作品『素直な悪女』で男達を翻弄する小悪魔を演じ、セックス・シンボルとして有名になった。 

歌手としての活動もあり、1967年にはセルジュ・ゲンスブールの提供による「Harley Davidson」(「ハーレイ・ダビッドソン」)、「Je t'aime... moi non plus」(「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」)、「Bonny and Clyde」(「ボニーとクライド」)などを歌った。1968年初頭には、ゲンスブールとの連名のアルバム『ボニーとクライド』も発表している。当時ギュンター・ザックスと結婚していたバルドーは、ゲンスブールと不倫の関係にあったが、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はそれを露骨に示す。この歌はバルドーとゲンスブールのデュエットに加え、バルドーによるあえぎ声の演技を含んでいる。そのことからバルドーはこの歌のリリースを拒否、ほどなくゲンスブールとの関係も円滑でなくなり男女関係解消。

1973年の『ドンファン』を最後に新たな演技・歌手などの芸能活動をしておらず、芸能人としては事実上の引退。その後は動物愛護運動家(特に毛皮反対運動・犬の愛護・保護)に徹し活動している。

2009年、動物の倫理的扱いを求める人々の会、通称PETAの会員で、同会の広告塔であるバルドーは、「カナダのアザラシ猟に対する抗議活動」として、カナダ産メイプルシロップのボイコット運動を行っている。

2011年、日産MOCOのCMソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「a Pourrait Changer」が使われた。



●主な出演作品(映画)

* ビキニの裸女 Manina, la fille sans voile (1952)
* 夜の騎士道 Les Grandes manoeuvres (1955)
* この神聖なお転婆娘 Cette sacr〓e gamine (1956)
* 素直な悪女 Et Dieu... cr〓a la femme (1956)
* 裸で御免なさい En effeuillant la marguerite (1956)
* 殿方ご免遊ばせ Une parisienne (1957)
* 月夜の宝石 Les Bijoutiers du clair de lune (1958)
* 可愛い悪魔 En cas de malheur (1958)
* 私の体に悪魔がいる La Femme et le pantin (1959)
* 気分を出してもう一度 Voulez-vous danser avec moi? (1959)
* 私生活 Vie priv〓e (1962)
* 軽蔑 Le M〓pris (1963)
* ビバ!マリア Viva Mar〓a! (1965)
* セシルの歓び 〓 coeur joie (1967)
* 世にも怪奇な物語 Histoires extraordinaires (1968)
* ラムの大通り Boulevard du rhum (1971)
* ブリジット・バルドー/ドンファン (1973)



マイケル・ジャクソン(ジャクソンズ・ヴィクトリーツアー)


















CBSレコードへの移籍

1975年にジャクソン5CBSレコードとの契約を結ぶ。モータウンの標準印税率が2.5%であったのに対し、CBSレコードはジャクソン5と20%の印税率を約束した。また、CBSでは自作自演・自身の楽器を演奏することが認められた。モータウンジャクソン5に対し契約違反の訴訟を起こすものの、結局ジャクソン5を引き留めることはできなかった。しかしモータウンは「ジャクソン5 (Jackson 5)」の商標を手放さなかったため、CBSレコード所属後はジャクソンズ (The Jacksons) と名乗ることとなった。また、ジャーメインがモータウン(つまり、ゴーディ)に残ることを選択したため、彼に代わって、末弟で当時14歳のランディが新たに加入した。ランディは非公式には1972年からライブでのバックミュージシャンとしてコンガを演奏していた。

ジャクソン5を失ったモータウンは、ベリー・ゴーディが社長を務めた時代には、ジャクソン5以上の成功を収めるミュージシャンを得ることはなかった。ベリー・ゴーディジャクソン5について(ジャクソン5が既にモータウンで最も人気のある存在となった後に)、「(モータウンという)流れ作業の組み立てラインから生まれた最後のビッグスターだった」と語っている[7]。

1976年夏、CBSテレビの重役フレッド・シルバーマンは、ABCのオズモンズに対抗すべく、ジャクソン家の8人(マイケル、マーロン、ティト、ジャッキー、ランディー、レビー、ラトーヤ、ジャネット)とバラエティー・ショーの契約を結ぶ。「ザ・ジャクソンズ (The Jacksons)」は1976年6月16日に放送を開始し、翌年3月まで続いた。この番組はアフリカ系アメリカ人の家族を主演とした最初のバラエティー・ショーであった。

ジャクソンズは、CBS所属時代の前半はフィラデルフィア・インターナショナル・レコードから、のちにはエピック・レコードから「僕はゴキゲン (Enjoy Yourself)」(フィラデルフィア・インターナショナルのケニー・ギャンブルとレオン・ハフによるプロデュース)に代表されるヒットを生み出した。ギャンブルとハフによる2枚のアルバムののち、ジャクソンズは自らプロデュースに乗り出し、1978年にアルバムDestinyを発売する。このアルバムはモータウン後としては最大のヒットシングルで、ビルボード・ホット100の7位、同じくビルボードR&Bシングル・チャート3位となる"Shake Your Body (Down to the Ground)"を収録している。このシングル曲はマイケルとランディの手によるもので、200万枚を売上げダブル・プラチナムを獲得している。Destinyもプラチナ・レコードとなり、ビルボード・ホット200・アルバム・チャートでは最高11位、同R&Bチャートでは3位を記録している。1979年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームを認定された。

1978年、マイケルはモータウンとユニバーサル映画合作の映画「ウィズ」(オズの魔法使いの改作であるミュージカルの映画化)にダイアナ・ロスなどとともに出演。この映画の作曲をしたクインシー・ジョーンズが翌年、マイケルのエピックからの最初のアルバム「オフ・ザ・ウォール」のプロデュースを担当することになる。1979年発売のこのアルバムは700万枚を売上げ、4つのトップ10、2つのナンバー1シングルを出すという大ヒットとなり、マイケルが最終的にジャクソンズを離れるきっかけのひとつとなった。

しかしマイケルはジャクソンズの活動をその後も続け、1980年には「マイ・ラブリー・ワン (Lovely One)」と"Can You Feel It"の2つのシングルカットのヒット曲を含むアルバムTriumphを発表。さらにその翌年には"Triumph"ツアーのもようを収録したライブアルバムThe Jacksons Live!がゴールド・レコードとなった。1988年にローリングストーン誌は「1967年から1987年のツアー、ベスト25」のひとつにTriumphツアーを数えている。Triumphツアーとアルバムはともに興業的な成功を収めたものの、マイケルの1982年のアルバム「スリラー」の影に完全に隠れることとなってしまう。「スリラー」は歴史上最も多くの売り上げを記録したレコードであり、現在の総売り上げ数は1億400万枚とされる。

1983年5月17日の「モータウン25」 (モータウンの25周年記念コンサートを録画放送した特別番組) がNBCから放送された。その中で、ジャーメインと他の兄弟たちの再結成による演奏があり注目された。1979年のテレビ番組The Midnight Specialへの出演を別とすれば、この (ジャーメインとの) 「ジャクソン5」の再結成は実に7年ぶりのことであった。しかし、この再結成もまた、マイケルのソロパフォーマンスによって曇りがかってしまう。同じコンサートでのマイケルの"Billie Jean"は、初めてムーンウォークを披露した歴史的名演となったのである。

ジャクソンズはその後、ゲストとしてミック・ジャガーを迎えた"State of Shock"を収録したアルバムVictoryを1984年にリリース。Victoryワールド・ツアーを行い大きな成功を得た。このアルバム及びツアーではジャーメインが公式にメンバーに復帰し、6人組としての活動となった。

Victoryツアーのすぐ後、マイケルは「スリラー」及びそのシングルカットの大ヒットを受け、ソロ活動に専念するためにザ・ジャクソンズから脱退する。ジャクソンズの一員としてツアーに参加していたときからソロとしてのマイケルの名は大きくなりつづけていたのである。他の兄弟たち (そのほとんどがマイケルとともにUSAフォー・アフリカの1985年のシングル曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加した) もソロ活動を行うことにしたため、ジャクソンズはいったん解散する。その後1989年に最後のアルバム2300 Jackson Streetで再結成する。このアルバムではラトーヤとマーロンを除くジャクソン家の兄弟姉妹全員が名を連ねたタイトル曲では全米R&Bナンバー9を獲得したが、ほとんどの曲ではジャーメイン、ジャッキー、ティト、ランディの4人のみのクレジットである。このころにはマイケルは世界的な大スターになっており、末妹のジャネットの名声も高まっていたため、ジャクソンズが注目されることはほとんどなくなってしまった。

2004年にはCBS/エピック時代からのベスト・アルバムThe Essential Jacksonsが、また、Universal/Hip-OからThe Jacksons Storyというモータウン時代からのヒット曲を集めたアルバムが相継いで発売された。


●解散後と影響

1990年の解散後、唯一の復活再結成は2001年9月7日ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたマイケルのソロ活動30周年記念ライブにおいてである(この様子は同年11月13日にCBSで特別番組として放送された)。それ以外ではメンバーはそれぞれの活動に焦点をあわせていた。

1980年代、マイケル・ジャクソンは世界の頂点に君臨するミュージック・スターの一人となり、「スリラー」と「バッド」の2つのアルバムは20世紀を代表するヒットとなった。しかし、彼の輝かしい業績はアメリカ国内では1990年代、2000年代にかけて、いくつかの行為によって奇人のレッテルを貼られてしまったこと、2つの刑事事件に発展する未成年への性的虐待事件などによって急速に衰えてしまう。1993年の事件では法廷外での決着となり、2005年の事件ではマイケルに対する嫌疑の全てが取り下げられている。

ジャクソンズ解散後、ジャーメイン・ジャクソンマーロン・ジャクソンはソロ活動を開始したが、マーロンはその後不動産業に転じ、またブラック・ファミリー・チャンネルの共同所有者ともなった。

ティト・ジャクソンは彼の父がしたように、彼の3人の息子たちを3Tの名で音楽グループとしてデビューさせる。3Tは1997年にマイケルをゲストに迎えた"Why"で全英トップ5にランクインする。そのすぐのち、ティトはブルース歌手として控えめなキャリアをスタートさせている。ランディは1989年にソロアルバムを出した後は、専ら兄弟たちを助ける仕事にまわっている。現在ランディはマイケルの公式ウェブサイトmjsource.comのウェブマスターでもある。

ジャクソン5はその後に大きな影響を残した。ジャンルの異なるグループにも影響を及ぼしており、インディーロックのバンドダッシュボード・コンフェッショナル[3]、R&Bのグループニュー・エディション[8]やB5[9]、ボーイ・バンドのハンソン[10]などがジャクソン5からの影響を認めている。しかしその中で特筆すべきなのは1980年代中盤のイギリスの兄弟姉妹グループファイブ・スターであろう。ピアソン家のステッドマン、ドリス、ロレーヌ、デニース、デルロイの5人で構成され、父親のバスター・ピアソンがマネージャーを務めていた。最初のレコーディングが行われたときに最年少のデルロイはわずか12歳であった。T5はジャクソン5としばしば比較され、ドリスも彼女の素晴らしい一瞬として「結婚の日にマイケル・ジャクソンと踊ること」と述べている。

ジャクソン5は1997年にロックの殿堂に、1999年にヴォーカル・グループの殿堂にそれぞれ迎えられた。さらに、"ABC"と「帰ってほしいの」の2曲がロックの殿堂の「ロックを形作る500曲」に選ばれている。

1981年、モータウンは、全世界でのジャクソン5モータウンからのアルバム・シングルの総売上げが1億枚を突破したと発表した。エピック・レコードは1984年末にジャクソンズのレコードのセールスが3,000万枚を越えたと発表している。

なお、2009年11月にはジャクソン5の未発表曲集「帰ってほしいの! アンリリースト・マスターズ」がモータウンからリリースされる事になり、ジャクソン5は世界から再注目を浴びる事となった。





ビートルズ


















ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンド。歴史上、全世界で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズは最も成功したグループアーティストと認定している。1962年10月レコードデビュー、1970年4月解散。

1960年代を代表する世界的アイドルとして成功を収める一方、彼らの作り出した音楽は60年代以降のロック・ポップスシーンに多大な影響を与えた。チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーなどのリズム・アンド・ブルースやロックンロールをルーツとしつつ、革新性と普遍性を併せ持った彼らの作品は、現代音楽の金字塔として揺るぎない地位を保っている。

外貨獲得に大きく貢献したとして1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章がメンバーに授与された。解散後、イギリスで新たな人気アイドルが登場する度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。"Fab4"という愛称もある。



◆世界への影響◆

ビートルズの影響力は世界中に波及し、曲のコピーや世界各国でバンド編成のグループが誕生した。またファッション面での貢献として、初期にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」(スチュアート・サトクリフが恋人のアストリット・キルヒヘルのヘアスタイルを真似たことで広まったという説もある)などといった、数々の点が挙げられる。長髪スタイルも彼等の影響のひとつ。ファッション面の他にも20世紀のポップカルチャーとして各国の文化面にも多大な影響を与えた。その背景として、当時から現在まで世界の超大国であるアメリカで前代未聞の人気グループとして認知され、かつ、同国の驚異的なレコード売り上げ枚数やコンサート動員数で大きな成功を収めたことが指摘されている。


●音楽的貢献

ロック・ポピュラー音楽史の流れなど変えた事や、予約レコード枚数の世界最多記録など数え切れない。各国でも色々な記録が残っている。またカバーされる曲が最も多いアーティストとも呼ばれている。彼等の「イエスタデイ」は世界中のアーティストから最もカバーされており、『ギネス・ワールド・レコーズ』には3000曲以上のカバー曲があると認定されている。ちなみに有名アーティストからはエルヴィス・プレスリーフランク・シナトラなどが取り上げている。また他の曲では、「カム・トゥゲザー」がマイケル・ジャクソンによって彼のビデオに取り上げられた(その後、アルバムにも収録)。ソロ活動したジョン・レノンの「イマジン」もマドンナや多数のアーティストにカバーされている。日本では昭和の歌謡界の女王、美空ひばりや若大将の異名をもつ加山雄三などが彼等の曲をカバーしたり、歌っている。また日本のロック歌手矢沢永吉もラジオから流れてくるビートルズを聴いてロックに目覚めたという。またカバー曲だけではなく、現在までのポピュラー音楽がここまで進化してきたのも彼等の曲の影響であるのも事実である。また音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。


●オリジナル曲を自ら作った

ビートルズ以前にチャック・ベリースティーヴィー・ワンダー、バディー・ホリー、リトル・リチャード、キャロル・キングなど自作自演を基本とした歌手や作曲家の例は多数ある。

ジョンとポールは彼らに憧れ、自作自演を目指してオリジナル曲作りに励んだ。 当時ポピュラー音楽では作詞、作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルヴィス・プレスリーでも一部は他人との共同ながら自作の曲もあるが、基本的に持ち歌はエルヴィス以外の人の作詞作曲であった。これに対し、ビートルズは基本的に自らのリリースする曲は自作自演であり、アマチュア時代や初期(1965年頃まで)のライブやアルバム中の曲に限りR&RやR&Bの他のアーティストのカバー曲があったものの、中期(アルバム『ラバー・ソウル』から)以降は全て自分たちのオリジナル曲であり、シングルに関しては、デビュー曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」以降全てオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった(特にデビュー曲に関し、プロの作曲家に頼まず、オリジナル曲を出したアーティストは当時皆無に等しかった)。ビートルズが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズミック・ジャガーキース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。ビートルズ以降、アーティストやミュージシャン、シンガー達が自作自演という事が一般化されていく。


アメリカへ本格的に進出した。

1964年のビートルズアメリカ初上陸はアメリカ人にとっても歴史的な年で、エドサリヴァン・ショーに出た時は、アメリカのテレビ史上最高の72パーセントという驚異的な視聴率などが記録に残っている。また当時のアメリカ合衆国の人口で7300万人が視聴したという。また、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をリリースし、アメリカでのナンバー1ヒット曲が最も多いアーティストとなっている。その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコード・デビューの年でもある1964年には、4月4日付の『ビルボード』誌のシングルチャートの1〜5位を独占)が挙げられる。また、ビルボードでは、最も多くのナンバー1獲得アルバムなどがある。ビートルズは英国人として全米レコード協会のゴールドディスク受賞を果たしているが、当時は外国人が受賞する事は非常に珍しい話であった(史上初は同時期に活動していた坂本九で、ビートルズは2例目)。この「全米レコード協会」によるとビートルズが現在までアメリカで最もレコード売り上げ記録があるアーティストとして記録されている。 アメリカ合衆国第42代大統領・ビル・クリントンは「ビートルズの中で特に好きなのはポール・マッカートニー」と答えている。


●さまざまなジャンルの音楽との融合

一方、中期に差し掛かる辺りから「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」、「シーズ・リーヴィング・ホーム」でのストリングス、「フォー・ノー・ワン」でのホルンなどといったクラシック音楽で用いられてきた楽器を演奏する曲がリリースされた。また、ジョン作の「ノルウェーの森」で初めてジョージがシタールを導入したことにはじまり、「ラヴ・ユー・トゥ」、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、「ジ・インナー・ライト」などの主としてジョージ作の曲で際立っていたインド音楽に使われる楽器の演奏を、サウンドに融合する形で組み込んだ(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、「ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」などといった、ラーガロックへと、レノン=マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」では、ブラス・セクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。「アイ・フィール・ファイン」ではフィードバックも使用した)。

このような幅広い楽曲を作ったビートルズは、デビュー当時は単なるロックンロール・バンドと見られていたが、その音楽的な領域は単なるR&Bにとどまらず、バラードからハードロック、またカントリーソングからゴスペルソング、そしてフォーク・ソングからオペラ風ソング、クラシック音楽からジャズ風のサウンド、バンド音楽からピアノ曲バロック音楽からレゲエ風ソング、ジョージ・ハリスン作曲のインド音楽、さらには「レヴォリューション9」にみられる実験的音楽まで、ありとあらゆるジャンルに広がっており、以降、世界のロック・ポップス音楽はあらゆる領域で、多かれ少なかれビートルズの影響を受けていると言える。このようなある種「音楽のデパート」の様な傾向は、二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)に顕著に見受けられる。 また欧米の音楽評論家達からはその「ホワイトアルバム」を「西洋音楽の歴史である」と評価されている。 同時に後述のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のように高い音楽性を示す作品も作り出しており、バンド音楽、ポップス音楽をある種の芸術にまで高めた功績も非常に大きい。


●映画

ビートルズは映画も5本残している。「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」、「ヘルプ!4人はアイドル」、「マジカル・ミステリー・ツアー」、「イエロー・サブマリン」、「レット・イット・ビー」などがある。


●プロモーション・フイルム(ビデオ)の作成

ライブ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージフィルム(ビデオ)撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。プロモーションのためにいちいちテレビ局に出向いて演奏を披露するのが面倒になってきたためで、「ならば自分たちで演奏シーンの映像を作ってそれをテレビ局に配信すればよい」という考え方に至ったためと言われている。プロモ映像の製作は1965年の段階ですでに始められており、これが現在のプロモーション・ビデオの原型であると見る向きもある。またポールが主権を取り、マジカル・ミステリー・ツアーを製作する際、音楽を映像で表現してみようという発想からも見ることが出来る。『ビートルズ・アンソロジー』においても、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、当時は非常に画期的なことであった。 ちなみに「MTV」は1980年代に入ると欧米を主に人気を博して行く事になる。


●野球場でのコンサート

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、メンバーの疲労も非常に激しいものであった。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりに、コンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。そして、1965年8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて、それまでに前例のない史上初の野球場でのコンサートが行われたのである。この日、球場には実に55600人もの観客が集まった。

1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された。ビートルズ最後のコンサートも野球場であった(1966年8月29日、キャンドルスティック・パーク)。その後、野球場でのコンサートは一般化し、野球場でコンサートができることは、ロック・バンドにとっての一種のステイタスとなった。ビートルズがコンサート会場として野球場を使ったのは、一度に大勢の客を集めて移動の手間を省く、すなわち、少ない労力で最大の効果をあげることを目的としたものであったものの、野球場コンサートのステイタス化の先鞭であったといってよい。


●レコーディング方法の開拓

多重録音が可能になり、後半の曲は音楽実験的な要素が含まれるようになる。有名な例が巻き戻し再生によるレコーディングなどだ。演奏方法においても、ビートルズは積極的に新しい方法を取り入れた。演奏方法についても、「デイ・トリッパー」に使われているようなギターとベースのユニゾンパートをロック・バンドがレコーディングに使用したのは、彼らが初めてである。ギターとベースのユニゾンについては、現在ではごく当たり前に使われるようになった。特にサイケデリック・ロックによって生まれた「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などの高いレコーディング技術は、その後の音楽業界に多大なる影響を及ぼした。

ビートルズがつくり出した演奏方法、サウンドなどは、後のハードロックやヘヴィメタルの発展に大きく影響していると評価されているが、ビートルズのメンバー自身、ロックに限らず、当時の新しい音楽や楽器に敏感に反応していたのは確かである。








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ソフィア・ローレン

















マイケル・ジャクソン




ソフィア・ローレンSophia Loren、1934年9月20日 - )はイタリアを代表する女優である。本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ(Sofia Villani Scicolone)。アレッサンドラ・ムッソリーニは彼女の妹アンナ・マリアの娘である。本来はローレンよりもロレーンに近い発音である。


●プロフィール

イタリアの首都であるローマで、ロミーダ・ヴィラーニとリカルド・シコローネの間に生まれた内縁の子であった。幼少時はナポリ近郊のポッツオーリで貧困の中成長し、1950年代初頭にヨーロッパ映画に端役として出演した。その当時の名前はソフィア・ラッツアーロであった。彼女は後の夫となるカルロ・ポンティに見いだされ、彼の制作する多くの映画に出演した。彼女の初期の主演作の1つは1953年の『Due notti con Cleopatra』であった。同作は他の初期主演作と同様に、彼女の肉感的な体を強調した作品であった。さらに幾つかの作品にはトップレスで出演した。それらの作品は当時のヨーロッパでは受け入れられたが、イギリスやアメリカではそのような場面はカットされた。

彼女は1951年にハリウッドの超大作『クオ・ヴァディス』に端役で出演したが、1957年の『島の女』が公開されると彼女は国際的スターと見なされるようになった。この作品において、彼女の水に濡れて体のラインが浮き立つシーンは象徴的であった。

彼女はその初期のハリウッド作品『楡の木蔭の欲望』(ユージン・オニールの演劇)、『月夜の出来事』(ケーリー・グラントとのロマンティック・コメディ)、『黒い蘭』(アンソニー・クインとのロマンチック・ドラマ)でセックスシンボルとしてだけではなく、演技力と喜劇的な実力をも証明した。

ケーリー・グラントとは恋愛関係にあったことを、のちに発表した自伝『生きて愛して』で公表した。
2009年

1960年代までに、ソフィアは世界で最も人気のある女優のうちの1人としてハリウッドとヨーロッパの両方で作品に出演した。1960年の『ふたりの女』でアカデミー主演女優賞を受賞。同年公開の『求むハズ』では共演のピーター・セラーズとのロマンスが報じられた(彼女は否定している)。この作品のプロモーションでソフィアとセラーズは共にアルバムをレコーディングした。

ソフィアは喜劇王チャーリー・チャップリンの最後の監督作品『伯爵夫人』に出演したことがあり、マーロン・ブランドと夢の共演を実現した。この作品は、チャップリンが、赤狩りによってハリウッド及びアメリカから追放された後の作品で、イギリスで製作、公開されたがあまり知られていない。

長い間、妻のいるカルロ・ポンティとは不倫の間柄だったが、彼の離婚が成立した1972年に正式に結婚した。指揮者のカルロ・ポンティ・ジュニアと、結婚後に生まれた映画台本作家兼監督のエドアルド・ポンティの2人の息子がいる。ポンティの脱税容疑事件の後、ジュネーヴに在住。事件でイタリア当局に没収されていたポンティ所有の絵画を、遺産として取り戻すとして裁判を起こした。

1996年、イタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ)を受章。

2006年、トリノオリンピックの開会式でオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。

SSCナポリの熱心なサポーターである。セリエA昇格が期待される2007年には「ナポリが昇格したらストリップショーを開いてもいい」と発言した。


●主な出演作品

* クオ・ヴァディス - Quo Vadis(1951)
* アンナ (1951年の映画) - Anna(1951)
* こんなに悪い女とは - Peccato che sia una canaglia / Too Bad She's Bad(1954)
* ナポリの饗宴 - Carosello Napoletano(1954)
* バストで勝負 - La Bella Mugnaia(1955)
* 河の女 - La donna del fiume(1955)
* 島の女 - Boy on a Dolphin(1957)
* 殿方ごろし - Pane, Amore e...(1957)
* 侵略者 - Attila(1958)
* 楡の木蔭の欲望 - Desire Under the Elms(1958)
* 月夜の出来事 - Houseboat(1958)
* 鍵 - The Key(1958) − キネマ旬報ベストテン第8位
* 黒い蘭 - The Black Orchid(1959)
* 私はそんな女 - That Kind of Woman(1959)
* バラ色の森 - A Breath of Scandal(1960)
* 西部に賭ける女 - Heller in Pink Tights(1960)
* ナポリ湾 - It Started in Naples(1960)
* 求むハズ - The Millionairess(1960)
* ふたりの女 - La Ciociara(1960) − キネマ旬報ベストテン第6位
* エル・シド - El Cid(1961)
* 昨日・今日・明日 - Ieri, Oggi, Domani(1963)
* ローマ帝国の滅亡 - The Fall of the Roman Empire(1964)
* レディL(1965)
* アラベスク - Arabesque(1966)
* 伯爵夫人 -A Countess from Hong Kong(1967)
* ひまわり - I Girasoli(1970)
* ラ・マンチャの男 - Man of La Mancha(1972)
* 旅路 - Il Viaggio(1973)
* 逢いびき - Brief Encounter(1974)
* カサンドラ・クロス - The Cassandra Crossing(1977)
* 特別な一日 - Una Giornata Particolare(1977)
* プレタポルテ - Pret a Porter(1994)
* 微笑みに出逢う街角 - Between Strangers(2002)
* NINE Nine (2009)  (wikipedia)





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エルヴィス・プレスリー






ソフィア・ローレン




フランク・シナトラ







エルヴィス・プレスリー

基本情報
●出生名 エルヴィス・アーロン・プレスリー
●別名 エルヴィス 
 ザ・キング・オブ・ロックンロール
 ザ・キング
●出生 1935年1月8日
●出身地 アメリカ合衆国 ミシシッピ州
●死没 1977年8月16日(満42歳没)


●ジャンル ロックンロール
 ポップ・ミュージック
 ロカビリー
 カントリー・ミュージック
 ゴスペル
 ブルース
 リズム・アンド・ブルース
●職業 歌手
 俳優
●担当楽器 ボーカル、ギター
●活動期間 1954年 - 1977年
●レーベル サン・レコード RCAビクター


●ヒット曲

ナンバー1ヒットは全18曲、合計80週間である。曲数はビートルズに次ぐ歴代2位である。週間数に関しては歴代1位である。ちなみに2位はマライア・キャリーの79週。(ビルボードに準拠)

ロックン・ロール、リズム&ブルース、ゴスペル・ミュージックの3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ3度グラミー賞を受賞しているが、3度ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、エルヴィスは終生この事を誇りにした。
全米ナンバー1獲得曲 [編集]

* ハートブレイク・ホテル (Heartbreak Hotel) 1956年 8週間連続1位
* アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー
  (I Want You,I Need You,I Love You) 1956年 1週間1位
* ハウンド・ドッグ (Hound Dog) 1956年 11週間連続1位
* 冷たくしないで (Don’t Be Cruel) 1956年 11週間連続1位
* ラヴ・ミー・テンダー (Love Me Tender) 1956年 5週間連続1位
* トゥー・マッチ (Too Much) 1957年 3週間連続1位
* 恋にしびれて (All Shook Up) 1957年 9週間連続1位
* テディ・ベア (Teddy Bear) 1957年 7週間連続1位。
  エルヴィスは「なぜこんな曲が7週No.1になったのか」と疑問に思ったという
* 監獄ロック (Jailhouse Rock) 1957年 8週間連続1位
* ドント (Don’t) 1957年 5週間連続1位
* 冷たい女 (Hard Headed Woman) 1958年 1週間1位
* 恋の大穴 (A Big Hunk o’ Love) 1959年 2週間連続1位
* 本命はお前だ (Stuck On You) 1960年 4週間連続1位
* イッツ・ナウ・オア・ネバー (It’s Now or Never) 1960年 5週間連続1位
* 今夜はひとりかい? (Are You Lonesome Tonight?) 1960年 6週間連続1位
* サレンダー (Surrender) 1960年 2週間連続1位
* グット・ラック・チャーム (Good Luck Charm) 1961年 2週間連続1位
* サスピシャス・マインド (Suspicious Minds) 1969年 1週間1位

その他

* フール・サッチ・アズ・アイ ((Now and Then There's) A Fool Such as I)1959年 全米2位、全英1位
* 好きにならずにいられない (Can’t Help Falling in Love) 1961年 全米2位、全英1位
* 心の届かぬラヴ・レター (Return to Sender) 1962年 全米2位、全英1位
* イン・ザ・ゲットー (In the Ghetto) 1969年 全米3位、全英1位


●出演作品

32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。

* やさしく愛して Love Me Tender (1956年)
* さまよう青春 Loving You (1957年)
* 監獄ロック Jailhouse Rock (1957年)
* 闇に響く声 King Creole (1958年)
* G.I.ブルース G.I. Blues (1960年)
* 燃える平原児 Flaming Star (1960年)
* 嵐の季節 Wild in the Country (1961年)
* ブルー・ハワイ Blue Hawaii (1961年)
* 夢の渚 Follow That Dream (1962年)
* 恋のKOパンチ Kid Galahad (1962年)
* ガール!ガール!ガール! Girls! Girls! Girls! (1962年)
* ヤング・ヤング・パレード It Happened at the World's Fair (1963年)
* アカプルコの海 Fun in Acapulco (1963年)
* キッスン・カズン Kissin' Cousins (1963年)
* ラスベガス万才 Viva Las Vegas (1964年)
* 青春カーニバル Roustabout (1964年)
* フロリダ万才 Girl Happy (1965年)
* いかすぜ!この恋 Tickle Me (1965年)
* ハレム万才 Harum Scarum (1965年)
* フランキーandジョニー Frankie and Johnny (1966年)
* ハワイアン・パラダイス Paradise, Hawaiian Style (1966年)
* カリフォルニア万才 Spinout (1966年)
* ゴー!ゴー!ゴー! Easy Come, Easy Go (1967年)
* ダブル・トラブル Double Trouble (1967年)
* ブルー・マイアミ Clambake (1967年)
* ステイ・アウェイ・ジョー Stay Away, Joe (1968年)
* スピードウェイ Speedway (1968年)
* バギー万才 Live a Little, Love a Little (1968年)
* 殺し屋の烙印 Charro! (1969年)
* トラブル・ウィズ・ガール The Trouble with Girls (1969年)
* チェンジ・オブ・ハビット Change of Habit (1969年)
* エルビス・オン・ステージ Elvis: That's the Way It Is (1970年)
* エルビス・オン・ツアー Elvis on Tour (1972年) (wikipedia)
 




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オードリー・ヘップバーン




グレゴリー・ペック











●本名 Audrey Kathleen Ruston
●別名 Edda van Heemstra
●生年月日 1929年5月4日
●没年月日 1993年1月20日(満63歳没)


●出生地 ベルギーブリュッセル
●国籍 イギリス
●身長 170cm


●職業 女優
●ジャンル 映画
●活動期間 1948年 - 1989年


●配偶者 メル・ファーラー (1954年 - 1968)
アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982)
●家族 ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)
ルカ・ドッティ (1970年生)


●主な作品
ローマの休日
ティファニーで朝食を
マイ・フェア・レディ


●受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1953年『ローマの休日

ジーン・ハーショルト友愛賞
1992年『Outstanding Contributions to Humanitarian Causes』
英国アカデミー賞
主演女優賞
1953年『ローマの休日
1959年『尼僧物語』
1964年『シャレード
エミー賞
Outstanding Individual Achievement - Informational Programming

1993年『Gardens of the World with Audrey Hepburn』
グラミー賞
Best Spoken Word Album for Children
1994年『Audrey Hepburn's Enchanted Tales』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞 (ドラマ部門)
1953年『ローマの休日
セシル・B・デミル賞
1989年『Lifetime Achievement』
トニー賞
最優秀演劇女優賞
1954年『Ondine』
Special Tony Award
1968年『Lifetime Achievement』


●備考
AFI(米国映画協会)の「最も偉大な女優50選」では第3位。

同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『ローマの休日』、第12位『マイ・フェア・レディ』、第54位『麗しのサブリナ』、第57位『いつも二人で』、第61位『ティファニーで朝食を』。(wikipedia)





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アラン・ドロン






クラウディア・カルディナーレ








サルコジ大統領夫妻と


●生年月日 1935年11月8日(74歳)
●出生地 オー=ド=セーヌ県
●国籍 フランス
●主な作品
* 女が事件にからむ時 Quand la femme s'en m〓le(1957年)
* 黙って抱いて Sois belle et tais-toi (1957年)
* 恋ひとすじに Christine(1958年)
* お嬢さん、お手やわらかに! Faibles Femmes (1959年)
* 学生たちの道 Le Chemin des 〓coliers (1959年)
* 太陽がいっぱい Plein soleil (1960年) - キネマ旬報ベストテン第3位
* 若者のすべて Rocco e i suoi fratelli (1960年)
* 生きる歓び Che gioia vivere (1961年)
* 素晴らしき恋人たち Amours c〓l〓bres (1961年)
* 太陽はひとりぼっち L'Eclisse (1962年) - キネマ旬報ベストテン第5位
* フランス式十戒 Le Diable et les dix commandements (1962年)
* 地下室のメロディー M〓lodie en sous-sol (1962年)
* 山猫 Il Gattopardo (1963年)
* 黒いチューリップ La Tulipe noire (1964年)
* 危険がいっぱい Les F〓lins (1964年)
* 黄色いロールス・ロイス The Yellow Rolls-Royce (1964年)
* 名誉と栄光のためでなく Lost Command (1966年)
* テキサス Texas Across the River (1966年)
* パリは燃えているか Paris br〓le-t-il? (1966年) - キネマ旬報ベストテン第6位
* 冒険者たち Les Aventuriers (1967年)
* サムライ Le Samoura〓 (1968年)
* 悪魔のようなあなた Diaboliquement v〓tre (1967年)
* 世にも怪奇な物語 Histoires Extraordinaires (1968年)
* さらば友よ Adieu l'ami (1968年)
* あの胸にもういちど The Girl on a Motorcycle (1968年)
* 太陽が知っているLa Piscine (1968年)
* シシリアン Le Clan des Siciliens (1969年)
* ボルサリーノ Borsalino (1970年)
* 仁義 Le Cercle Rouge (1970年)
* もういちど愛して Doucement les Basses (1971年)
* レッド・サン Soleil Rouge (1971年)
* 帰らざる夜明け La Veuve Couderc (1971年)
* 高校教師 La Prima notte di quiete (1972年)
* 暗殺者のメロディ The Assassination of Trotsky (1972年)
* リスボン特急 Un flic (1972年)
* ショック療法 Traitement de choc (1972年)
* スコルピオ Scorpio (1973年)
* 燃えつきた納屋 Les Granges brul〓es (1973年)
* ビッグ・ガン Tony Arzenta / Big guns (1973年)
* 暗黒街のふたり Deux hommes dans la ville (1973年)
* 個人生活 La Race des 'seigneurs' (1974年)
* 愛人関係 Les Seins de glace (1974年)
* ボルサリーノ2 Borsalino & Co. (1974年)
* アラン・ドロンのゾロ Zorro(1975年)
* フリック・ストーリー Flic Story (1975年)
* ル・ジタン Le Gitan (1975年)
* パリの灯は遠く Monsieur Klein (1976年)
* ブーメランのように Comme un boomerang (1976年)
* プレステージ L'Homme press〓 (1977年)
* 友よ静かに死ね Le Gang (1977年)
* チェイサー Mort d'un pourri(1977年)
* エアポート'80 The Concorde ... Airport '79 (1979年)
* テヘラン 43 Tegeran-43 (1981年)
* 危険なささやき Pour la peau d'un flic (1981年) - 監督・脚本も
* スワンの恋 Un amour de Swann (1984年)
* ヌーヴェルヴァーグ Nouvelle Vague (1990年)
* カサノヴァ最後の恋 Le Retour de Casanova (1992年)
* 百一夜 Les Cent et une nuits de Simon Cin〓ma (1995年)
* ハーフ・ア・チャンス Une chance sur deux (1998年)

●受賞
セザール賞最優秀男優賞(1985年) (wikipedia

 



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